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ミライノマナビコラム  ― 大局観で教育を考える

2019.9.6

第6回 日本の大学を没落させる国際バカロレアへの無理解

後藤 健夫

後藤 健夫

教育ジャーナリスト。
大学コンサルタントとして、有名大学などのAO入試の開発、 入試分析・設計、情報センター設立等に関与。早稲田大学法科大学院設立に参画。元・東京工科大学広報課長・入試課長。『セオリー・オブ・ナレッジ―世界が認めた「知の理論」』(ピアソンジャパン)を企画・構成・編集。

 

先日、日本で国際バカロレア(IB)教育に関わる人たちとの会合で「国際バカロレア教育は英語教育や海外留学だけが特長ではないのに、それを訴求して生徒募集をしようとする学校がある。あまり良いことではない」といったことが話題となった。このコラムを毎回ご覧いただいているみなさんには、国際バカロレア教育の良さは「英語教育」「海外留学」だけではないことは十分にご理解いただけているはずだ。どうしてこうした生徒募集広報がなされるのかを今回は考えてみたい。

 

高い英語力は確かに必要だが

そもそも日本では、日本語ではなく主に英語で国際バカロレア教育を受けることしかできなかった。日本語での科目を設置する「日本語DP」が認められるようになったのはつい数年前のことである。それまではインターナショナルスクールを中心に国際バカロレアは展開されていた。しかも未だに全科目を日本語で設置できるわけではなく一部科目に過ぎない。

ディプロマ・プログラム(DP)修了に際して世界統一で実施される最終試験も外国語のほかにもう一科目を英語(あるいはフランス語かスペイン語)で受験しなければならない。この試験はマークシート方式などの選択式の問題ではなく、考えを論述するものなので、高い英語の能力を求められる。

こうしたことからIBDP校は必然的に英語教育に力を入れるのであるが、国際バカロレアのプログラムの本質は英語力を鍛えるためのものではない。だからIBの理念に賛同する学校であればあるほど、英語教育を宣伝に使われるのは困るのだ。

国際バカロレアのミッションにあるように「多様な文化の理解」が求められてはいるが、当然のことながら、英語が理解できるからと言って多様な文化を理解できるわけではない。言語と文化は密接な関係にあり、多様な文化を理解するためには複数の言語でコミュニケートできるマルチリンガリズムが求められる。日本語と英語ができれば事足りるとは国際バカロレアを理解する人たちは思っていない。

 

グローバル人材養成の政策パッケージ

政府や文部科学省、そして、経済界が国際バカロレア教育を推進した背景にはグローバル人材の養成が急務だったことがある2013年頃、政府の日本再興戦略でも採り上げられ、2018年までに200校の国際バカロレア校を設置するという数値目標が示された。教育再生実行会議の提言でも何度もIBDP校の設置と推進が提言された。

当時は英語教育の強化は一大命題であり、グローバル人材育成に絡めて、海外への留学を増やしたり海外からの留学生を多く受け入れたりすることも重要な政策ではあった。こうした経緯があって国際バカロレア教育が英語教育の強化と一体的に捉えられるようになった。しかし、これは政策のタイミングによる誤解であって、それぞれは関連するものの異なる課題である。

 

世界中の大学が認めるIBDP

最も問題なのは、まだまだ日本の多くの大学が国際バカロレアを正しく理解できていないことである。IBDPは世界標準の大学入学資格であり、いまさら日本の共通試験(大学入試センター試験)を受験させるというのは、極端に言えば制度の否定であり、控え目に言っても生徒に過剰な負担を課すことになる。

実際にIBDPの最終試験で高得点を獲得すれば、世界のトップ大学から奨学金付きでオファーが来る。つまり、国際バカロレアは世界中の大学が喉から手が出るほど欲しい生徒を育てるプログラムなのだ。そのプログラムを日本の高校・大学が「英語教育」としてしか捉えないのであれば、優秀な生徒はどんどん海外へと流れていくだろう。

日本の大学の地位が相対的に低いこともあるが、国際バカロレア教育で高いレベルの思考力や探究心・協調性などを培った受験生にとって、その価値を認めない日本の大学など袖にして、オファーをくれる世界のトップ大学に興味が向くのも仕方ないことだ。

いずれにしても、まだまだ国際バカロレアに対する日本での認知が低いことが問題である。いま一度、IB校においては、英語教育に訴える生徒募集に偏ることなく、国際バカロレアの良さを見つめ直してもらいたいところである。

 

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