2021年度より中学校で、22年度に高校で、新しい学習指導要領が全面実施されました。これまで重視してきた「知識・技能」に加えて「思考力・判断力・表現力等」と「学びに向かう力・人間性」の育成が目指されています。そのために「主体的・対話的で深い学び」(アクティブ・ラーニング)への取り組みが進んでいます。このコーナーでは、なぜこのような教育の改革が必要なのかを、シリーズでお伝えします。今回はこれまでお伝えしてきた「新しい学力」から視点を変えて、近年明らかになってきた客観テストの限界について見ていきます。
アメリカの共通テスト「SAT」の歴史
このコーナーでは、学びが変わる理由として「これからの時代には新しい学力が求められる」ということを紹介してきました。今回は視点を変えて、技術的な革新や産業構造の変化を別にしても、やはり学びが変わる必要があるということを見ていきます。
大学入試などで長らく客観的なペーパーテストが学力評価のツールとして使われてきたのには、もっともな理由がありました。たとえばアメリカでは、かつてハーバード大学などの名門大学に入学できるのは、ほとんどが、白人の上流階級出身者(プレップスクール出身者など)で、女子は受験すら認められませんでした。現代の常識から考えると信じられないような不平等です。
そこで、肌の色や出身階層によらず、受験生本人の学力によってのみ入学者を選抜する仕組みが作られました。それが現在のSAT(アメリカの大学進学適性試験)です。SATはその理念として、受験生が生来持っている読解力や数学センスを測るものとして設計されました。
格差の再生産装置
しかし、SAT中心の選抜が行われるようになってから半世紀以上が経ち、社会の状況は大きく変わりました。まだまだ問題は残っているものの、少なくとも大学入試のような公式の場では、男女や人種、出身階層による差別は許されなくなりました。このこと自体は素晴らしいことですが、自由な競争を押し進めた結果、次のような状況が出来しています。
SATの成績は、受験生の出身家庭の経済力と強い相関関係を示すようになりました。これは素朴に「優秀な親の子どもは優秀」というだけの話ではないようです。というのも、高校の成績と家庭の経済力との相関に比べて、SATと経済力との相関はより強い※1からです。単に「優秀な親の子は優秀」というだけでは、高校の成績とSATの結果に大きな差は出ないはずです。
アメリカには日本のような誰もが受けられる集団指導塾が少なく、入試対策はプライベートレッスンが基本になります。名門大学への対策ともなると1時間1000ドル(約15万円)などの高額になることもあるそうです※1。この入試対策にかけられる経済力の差が、高校の成績とSATの点数との差として表れているのです。
状況が極端で分かりやすいため、アメリカの話を取り上げましたが、自由主義経済の下で、ペーパーテストの結果が将来の所得階層を大きく左右するような社会では、多かれ少なかれ同様の状況が見られます。実際、日本でも東大生の出身家庭の所得は、日本全体の平均と比べると明らかに高い※2、というのは有名な話です。
つまり、SATのような客観的なペーパーテストは、お金をかけることで対策ができてしまうため、本来の趣旨であった「出身階層に影響されることなく本人の学力のみで選抜する」ことが困難になっています。そのため、裕福な家庭が潤沢な資金で入試対策→子弟が難関校に合格→卒業後、収入の高い職を得て裕福に→潤沢な資金で入試対策、という階級を固定・再生産させる結果になっています。そもそも階級を否定したいがために始めたはずの客観テストが階級を再生産する装置になっているのは皮肉なことです。
※1 マイケル・サンデル 鬼澤忍 訳『実力も運のうち 能力主義は正義か?』早川書房
よりよい未来への必要なコスト
これらのことから、新たな学力の評価制度が必要だと分かります。お金さえかければ身につけられる受験テクニックではなく、受験生本人にどのような資質があるのか、どのぐらい学びへの意欲を持っているのか、学びたいのはどのような分野なのか、そういった一人一人の内実まで踏まえた評価へと変えていかなければならないのです。
もちろん、どのような評価制度を作っても、常に対策はできてしまいます。だからといって変えることをやめてしまえば、本来、誰もが平等に扱われるはずの入試制度が、社会の分断を加速することになりかねません。
受験生一人一人の内実を評価するのは簡単なことではありません。手間もかかるし、人手もかかるでしょう。人間の心の中を覗くことができない以上、その評価は常に不完全なものにしかならないかもしれません。それでも、これからの教育はその評価制度を作り、磨き続けなければならないのです。私たちが教育に、そして子どもたちに未来を託すのであれば、この手間は、公平・平等な社会のための必要なコストではないでしょうか。