2021年度より中学校で、22年度に高校で、新しい学習指導要領が全面実施されます。これまで重視してきた「知識・技能」に加えて「思考力・判断力・表現力等」と「学びに向かう力・人間性」の育成が目指されます。そのために「主体的・対話的で深い学び」(アクティブ・ラーニング)に力を入れることになります。このコーナーでは、なぜこのような教育の改革が必要なのかを、シリーズでお伝えします。今回は「第11回 ChatGPT以降の教育とは」の続編として、生成AIへの対応がもたらす教育格差について考えます。
生成AIは子どもたちをダメにする?
生成AI登場の熱気も少しずつ落ち着いてきました。とはいえ、生成AIが消えてなくなったわけでは、もちろんありません。むしろ、生成AIの性能自体は日進月歩で高度になっています。多くの人が生成AIが当たり前の世界に慣れてきた、ということかもしれません。
さて、生成AIが登場した当初、大学までも含めた多くの教育現場は困惑していました。「教員の許可なしではAIを使わせない」といったガイドラインを作った大学もありました。生成AIは、ワープロや電卓と同じように、誰でも使えるものなので、当然ながら、レポート作成や課題作成、読書感想文などにも使うことはできます。
教育機関からの当初の反応は十分に理解できるものです。学習者が生成AIを使って、学んでもいないものや読んでさえいない書籍について、提出物を作成できてしまう状況になったからです。
想定される「AI格差」
しかしながら、単純な「AI禁止」は問題の解決になりません。このことは多くの学校でも認識されていることです。AIはあくまでもツールの一つに過ぎません。たとえば、設計図を書いて3Dプリンターに出力させることと、同じ物体を削り出して作ることではどちらが優れているか。あるいは、レゴブロックでロボットを作ることと、部品レベルからロボットを手作りすることでは、いずれが学びが多いのか。これらは一概に優劣を論じられるものではありません。何を学びたいのかによるからです。
明示的であれ暗黙の了解であれ、新しいツールを規制することでもっとも心配されるのは、AIを上手く使う学習者と、上手く使えない学習者の間に、これまでの学力格差よりも大きな溝ができてしまうことです。AIを上手く使えない学習者が、規制されて使わないでいると、レポート丸投げ、読書感想文丸写しのような使い方しかできないまま、学業を終えてしまいます。
一方、制約なくどんどんAIを使い込んでいく学習者は、研究テーマを絞り込むためのブレインストーミングや、先行研究の調査、レポート文章のブラッシュアップや読みやすさ改善といったことなどにAIを使うことができます。あるいは、単純な丸投げツールとしてであっても、プログラミングを書かせたり、外国語の参考文献を翻訳させたり、という自分の助手としての使い方に習熟していきます。
つまり、AIは、学びを形骸化するためのツールにも、一個人がチームレベルの探究力を持つためのツールにもなるのです。
手抜きができるのはツールの本質
AIに対する過度の警戒は、このAI格差を一層広げることになります。この状況で、学校がするべきことは、AIを上手に使う生徒を増やすことであり、手抜きに使われてしまうことを恐れずに、できるだけ制限のない中でAIを活用することではないでしょうか。
現場の先生方にとって、AIに丸投げしてしまっては何の学びにもならないという心配があることは理解できます。しかし、いつの時代でも、どんなツールでも「手を抜くこと」と「上手く使うこと」は表裏一体です。そもそもツールとは手を抜くためのものだからです。重要なのは、そのツールを使って何か成果を出したいと思うような題材や取り組み方。これこそが、学校が蓄積してきたノウハウや教師の指導力が本領発揮されるところではないでしょうか。学校が、子どもたちが主体的に自らの学びを進めるような場であってもらいたいと思います。