本能や脳を原因として人間の全ての行動が説明されるとすれば、教育や精神医療は不毛な営みになってしまいます。しかし、アルフレッド・アドラーはこの決定論的な人間観を否定し、人間の尊厳を取り戻そうと努めました。アドラーは人間の自由意志と教育・治療とをどう捉えていたのでしょうか。
自由意志を救う
アドラーの娘である精神科医のアレクサンドラ・アドラーが、父親のアルフレッド・アドラーについて、次のような話を伝えています(Manaster, Guy et al. eds. Alfred Adler: As We Rememember Him)。
統合失調症の少女の診察に少女の父親が呼ばれました。主治医は、心配している両親とその場に同席していたアドラーを前に次のようにいいました。
「回復の見込みはありません」
アドラーはそれを聞いて、同僚である少女の主治医にこうたずねました。
「いいかね、聞きたまえ。どうしてわれわれにそんなことがいえるのだろう。これから何が起こるか、どうしたら知ることができるだろう」
アドラーが創始した個人心理学は、分割できない全体としての人間について考察します。今日、多くの研究者が心や精神病、神経症は何でも脳の仕組みによって解明できると考えているように見えますが、「脳は心の道具であって、起源ではない」と考えるアドラーは、教育や治療について脳科学者とはまったく違ったアプローチをします。
脳は心の起源ではないというのは、脳が心を作り出すのではないということであり、脳が心の道具であるというのは、脳が心を使うのではなく心が脳を使うという意味です。厳密にいえば、アドラーは心と身体は分割できないと考えるので、心が脳、つまり身体を道具として使うのではなく「私」、あるいは、古代ギリシア以来の哲学の言葉を用いるのであれば、「魂」が身体を使うのです。
善の選択
その際、「私」が何をするかを判断します。石は下の方向以外には落ちませんが、人間は行動する時、ただ一つの行動しか選べないわけではありません。
アドラーは次のようにいっています。
「人の行動はすべて目標によって設定される。人が生き、行為し、自分の立場を見出す方法は必ず目標の設定と結びついている。一定の目標が念頭になければ、何も考えることも着手することもできない」(『性格の心理学』)
人間は何かをしようとする時、その行為に先立って何かの目標を設定します。その目標はどのように選択されるかというと、今これを行うことが自分にとって「善」なのかあるいは「悪」なのかという判断をするのです。
この善と悪には道徳的な意味はなく、それぞれ「自分のためになる」「ためにならない」という意味です。当然、その判断を誤ることはありますが、基本的には自分のためにならないことを選択することはありません。
この選択を自由に行え、決して何かによって決定されるのではないからこそ、もしもその選択に際して何が善であるかという判断を誤っても、それを改めることができますし、誤っていることを教えることができます。
これこそが教育であり、治療です。どちらも自由意志があることが前提で、自分で選んだのであれば、後に選び直すことができるのです。
もちろん、手が麻痺していたり、縛られたりしていれば手を動かすことはできないように、脳を含めて身体が自由に行動することの妨げになることはあっても、身体が人間の行動を支配するということはないのです。
人間の行為は原因によってすべて説明し尽くされるわけではありません。自由意志で何かの行為を選択したように見えても、その実、本当の原因が知り尽くされてはいないだけであって、すべては必然の中に解消されると考えるには自由意志はあまりに自明でビビッドです。古来、哲学はこの自由意志を救う試みだったといえます。アドラーの思想もその線上にあるのです。
アドラーは自由意志を認めるので、最初に見たように、少女が回復しないと断定することはできないと考えたのです。
犯罪者の更生
このように決定論に立たないアドラーは、犯罪者も生まれつきであるとは考えず、どんな犯罪者も更生しうると考えました。
犯罪者を罰しても、犯罪者はそれを自分への挑戦としか見なしません。アドラーは死刑ですら犯罪者がそれを恐れて犯罪を思いとどまることはないと考えたので、死刑にも反対しました。犯罪者の更生のために必要なことは、罰することではなく教育です。
生のために何を教えるのか。他者は仲間であり、そのような仲間に協力し貢献することです。罰することでは、他者や社会は自分にとって敵対的なものであると思わせてしまい、他者に協力、貢献するまいと確信させるだけです。子どもが問題行動をした時に叱ってはいけない理由も同じです。
アドラーは、人間の行動はすべて本能によって支配されているという理論が人から奪った「尊厳」を取り戻したと、アドラーの息子である精神科医のクルト・アドラーはいっています(ホフマン『アドラーの生涯』)。
人間の尊厳を認めるというのは、人間の行動は本能のみならず、感情、過去の経験などにも支配されず、それらがこれからの人生を決定しないと見ることです。
このように見ることができれば、子どもへの接し方も自ずと変わってくるでしょう。