困難な共同体感覚育成
長期の休みは別として、普段は子どもたちが毎日学校に行くのは当たり前だったのに、いざ学校に行かずに家にいることを余儀なくされると、今さらながら「学校とは何か」を考えないわけにはいきません。
アドラーは、これまで見てきたように、教育の目標は共同体感覚の育成であると考えています。この共同体感覚を家庭で育成できないわけではありません。
母親は子どもがこの世界で最初に出会う仲間です。その母親が子どもに共同体感覚を教えることはできます。しかし、子どもにとって仲間は自分だけではないことを教えるのが母親の役目であるとアドラーは考えているのですが、母親が子どもを甘やかし、子どもに人生の課題に直面する準備をさせなければ、子どもと母親から構成される共同体は他者の侵入を容易に許さないものになってしまいます。子どもは母親だけが自分を援助する仲間と見なすようになって、他者は仲間とは見なさなくなるかもしれないということです。
そのように、母親から甘やかされて育った子どもは、母親ではない誰かから厳しく接するようなことがあれば、他者は仲間ではなく「敵」と見なすようになります。
親から憎まれた子どもは、親もまた敵になります。親を始め他者を敵と見なすようになった子どもは、他者に関心を持たず、他者に協力、貢献しようとは思わなくなり、そうなると、共同体感覚は育まれないことになります。
しかし、このように育った子どもでも、誰かが絶えず自分のことで尽力してくれていることを知る経験、例えば、誰も自分のことに格別の関心を持っていないと思っていたのに、病気になった時、献身的に看病してくれたというような経験をすれば、他者は自分にとって仲間であると実感できるでしょう(『教育困難な子どもたち』)。
学校の役割
学校は子どもが家庭で共同体感覚を身につけたかどうかを判断する「新しい状況による試験」(『子どもの教育』)の場になります。
親に甘やかされたり、他者を仲間と思えずに育った子どもは、学校に入ると、家庭にいるのとはまったく違った状況の中に自分がいることに気づくことになります。
教師は親が家庭で行った誤った教育の結末を引き受け、その誤りを補わなければならないとアドラーは考えています。そのため、教師の仕事はある意味で親の誤りを前提にしているので、親との対立をある程度避けることはできません(『子どもの教育』)。しかし、たとえ親が最初に教育を誤ったとしても、同じ子どもと関わるのですから、教師が親と協力しないわけにはいきません。
ですから、学校での教育は、家庭での教育と相反するものというより、それを補う、あるいは、家庭では十分学べないことを子どもたちが学べる場だと考えなければなりません。共同体感覚というのは、他者に協力、貢献することなので、多くの人が集う学校においてこそ、自己中心的に生きることはできないことを知るのです。
学びの場
アドラーが「教科を教えるのではなく、教科で教えなければならない」といっていることを見てきましたが、それは学校が知識を身につける場ではないという意味ではありません。それでは、知識を身につける手立てがあれば学校に行かなくてもいいかといえばそうではありません。教師や仲間との関わりの中でしか学べないことは多々あるからです。
学校の役割を考えた時、子どもたちが学校で学ぶことは絶対必要です。「学校とは何か」、学校の意味について考えなければならないのは親だけではありません。教師も学校で子どもたちが何を学ぶのかを考え、学校で学べることを切望するような場にする努力をする必要があります。
どんなことがあっても、教育を諦めてはいけません。