自立を教える
アドラーが「教科を教えるのではなく教科で教える」という時、何を教えるのか。
まず、「自立」です。
子どもは生まれてからかなり長い時間、親の援助がなければ生きていくことができません。しかし、大人は子どもが一日も早く自立できるように援助をしなければなりません。
一体いつになれば子どもが自立できるのかという見極めは簡単ではありませんが、一般的なことをいえば、親が思ってるよりも早く子どもは自立できるはずなのです。
アドラーは次のようにいっています。
「人生の一番最初の日から彼〔女〕らの年齢が許す限り自立するように訓練されるべきである」(Adler Speaks)
しかし、親がいつまでも子どもを子どもとしか見られず、本来自分でするべきこと、できることも自分でしないことを許していれば、子どもはいつまでも自立しません。
子どもの方も何もできないと思い込むことがあります。自分では何もしない、何も決めない方が子どもにとっても都合がいいのです。自分の行動に責任を持たなくていいからです。
課題の分離
アドラー心理学では「課題」という言葉を使います。あることの最終的な結末が誰に降りかかるか、あるいは、あることの最終的な責任を誰が引き受けなければならないかを考えた時に、そのあることが誰の課題かという言い方をします。
例えば、勉強するしないは子どもの課題です。もしも子どもが勉強しなければ、その結末は子どもにふりかかり、勉強しないことの責任は子ども自身が引き受けなければならないということです。
ところが、多くの親は勉強は親の課題だと考えていますから、子どもが勉強をしなければ、当然のように子どもに「勉強しなさい」というのですが、子どもの課題なので「勉強しなさい」といってはいけませんし、いえないのです。
およそあらゆる対人関係のトラブルは人の課題に土足で踏み込むこと、あるいは、踏み込まれることから起こります。
子どもは親に「勉強しなさい」といわれたら、自分の課題に土足で踏み込まれたように感じます。
勉強しない子どもも勉強しなくていいと思っているわけではありません。それなのに、親から「勉強しなさい」といわれたら、「自分でも勉強しようと思っていたのにやる気を失くした」というようなことをいって、いよいよ勉強しなくなります。
誰からいわれなくても勉強するようになれば、自立したといえます。親子関係についていえば、子どもの自立を援助するために、子どもの課題に踏み込んではいけないのです。
他方、教師は親とは少し違う立場にあります。最終的に勉強をする、しないを決めるのは子どもの課題です。しかし、教師は何もしないわけにはいきません。成績が伸びなければ、それは教師の責任だからです。教師の課題とは何か。わかりやすい授業をすることです。
生活面での自立
子どもの自立を促すのは勉強面だけではありません。生活の面でも子どもは自立していかなければなりません。
小学生だったある日、友人から電話がかかってきました。これから遊びにこないかと誘われたのです。私が住んでいた家は子どもの足では学校まで三十分はかかる校区のはずれにあったので、一度家に帰れば、次の日登校するまでは外に出ないことが多かったのですが、友だちから電話がかかってきた時に、ふと行ってみたいと思いました。
その時、近くにいた母にこれから遊びにいっていいかとたずねました。母はいいました。「そんなことは自分で決めていいのだよ」と。
誰とどこで遊ぶかは子どもの課題であって、親の課題ではありません。ところが、私はそのようなことは自分で決めてはいけないと思っていたので、自分で決めてもいいと親にいわれ驚いたことを覚えています。
なぜ自分で決めないのか
子どもの課題を大人が取り上げてしまうと、やがて入学試験を受ける時、あるいは、就職したり結婚したりする時にも、親に相談を持ちかけます。親は相談をされるのは嬉しいですし、できれば親の思う通りの学校に進学し就職、結婚してほしいと思います。
子どもにすれば、自分の課題を親が肩代わりすることはありがたいことです。もしもうまくいかなかった時に親のせいにできるからです。しかし、そのように育てられた子どもは自分の取り組むべき課題に立ち向かう勇気を持つことはできません。
子どもの課題について親が指示をしてばかりいると、失敗することは少なくなるかもしれませんが、指示されなければ自分では何もできないと思った子どもは自分に価値がないと思い、自分に価値があると思えない子どもは何かに取り組む勇気を持つことはできませんし、子どもはいつまで経っても自立できないのです。
アドラーは次のようにいっています。
「親の課題は、自分で自分のことができるようになるように、子どもにできるだけすぐれた人生の準備をすることである」(『子どもの教育』)
そのような準備ができていますか?