アドラーは、目に見える成功ではなく、困難を切り抜ける力を身につけることこそが「根本的な教育」だと考えました。人生にはさまざまな厳しい現実が待ち受けています。それらの現実に対して、うまくいかなかった場合に、失敗を認めて方法を変えることが必要になるからです。失敗は決して無駄ではなく、教育のチャンスとなります。どういうことか見ていきましょう。
根本的な教育
子どもの教育について考える際に、忘れてはならないことがあります。それは、知識を教えることだけが教育ではないということです。ちょうどナイフが善用されるだけでなく、人を殺傷するために使われることもあるように、知識も人に害を与えるために使われる可能性があります。知識は道具にすぎないので、その知識の習得自体が教育の究極の目標にはなりません。習得した知識を、何のために、どう使うかまで教える必要があります。
アドラーは、困難に直面した時、それに立ち向かい、切り抜ける力を身につけることこそが「根本的な教育」であると考えました。
「われわれの現代の文明では、根本的な教育よりは、目に見える結果、成功の方により関心がある」(『子どもの教育』)
多くの子どもは、何の疑問も持たず、成功するために勉強します。しかし、たとえ成功したとしても、困難に直面することを避けることはできません。
「ほとんど努力することなしに手に入れた成功は滅びやすい」(前掲書)
長年受験勉強し、試験に合格するために、相当な努力をしたと反駁したくなるかもしれません。しかし、人生では受験よりもはるかに大きな困難が待ち受けています。今成功したとしても、今後も失敗しない保障はどこにもありません。アドラーは、たとえ失敗しても、そのことが勇気をくじくことなく、それを新たな取り組むべき課題と受け止められるように教育するべきだと考えます。
正しい方法を見つける
アドラーは、問題を解決する「方法」の重要性について、次のように述べています。
「人生においてはあらゆるものに対して方法がある。どんな問題であれそれを解決するためには、正しい方法を見つけなければならない」(『人はなぜ神経症になるのか』)
なぜ「正しい方法」を見つけなければならないか。アドラーは、次のような喩えで説明しています。
「例えば、高さがたった五フィート(約一・五メートル)しかない戸口を通り抜けるためには、二つの方法がある。一つはまっすぐ歩いて行くことであり、もう一つは背中を曲げることである。最初の方法を試せば、頭を横木のところでぶつけてしまうだけでなく、結局のところ、二つ目の方法に頼らなければならない」(前掲書)
この喩えでいわれている「戸口」とは、人が直面しなければならない人生の課題を指します。そして、それを「通り抜ける」ことが、課題を乗り越えることを意味しています。
「われわれは自分の人生の重要な課題に対して同じような関係に立っている。事実を知り、事実に応じて、われわれの方法を適応させるのでなければ、現実と衝突するようになる」(前掲書)
まず、直面する課題がどのようなものか見極めなければなりません。自分の背の高さと戸口の高さとの関係を認識していなければ、そこを通ることはできません。戸口を高く作り直すことは実際にはできないので、誰から強制されなくても、自ら身を屈めなければ通り抜けられないのです。
人生においても同様に、現実を変えることはできません。変えることができるのは現実にどう向き合うかという「方法」(method)であり、それによって対処の仕方が決まります。ここでいう「方法を変える」とは、我慢するとか、自分を抑えたりすることではなく、課題に相応しいアプローチを見出すことを意味します。
ライフスタイルで現実に対処する
この「現実への向き合い方」をアドラーは「ライフスタイル」と呼んでいます。
「子どもは皆現実と直面し、うまくいくこともそうでないこともあるが、自分のライフスタイルにおいて現実と直面する方法を見出す」(前掲書)
ある方法でうまくいかなかった時には、別の方法を試みることができます。失敗したとしても、それを「新しい課題として取り組むべきもの」(『子どもの教育』)であると思え、困難を切り抜ける力を発揮できるのです。
これが「低い戸口を通る時には身を屈める」ということの意味です。ところが、これまで失敗を経験したことがない子どもは、人生に困難が待ち受けていることすら知らないように見えることがあります。そのような子どもは、たとえ困難な目に遭っても、そこから何も学びません。
『イソップ寓話集』に、葡萄の房に届かなかった狐の話があります。腹をすかせた狐が、支柱から垂れ下がっている葡萄の房を見て取ろうとしましたが、どうしても届きません。諦めて立ち去り時に、狐はこう呟きました。
「あれはまだ熟れてない」
うまくいかなかった時、課題への取り組み方に問題があったことを認めなければ、また同じことが繰り返されます。
「身を屈める」というのは、困難に直面した時の対処の仕方の例でしかありません。しかし、失敗を認めず、自分は正しいと思い込んでいる限り、現実の課題を乗り越えることはできないのです。