MIRAI NO MANABI ミライノマナビ

ミライノマナビコラム  ― 授業が変わる 学校が変わる

2018.8.10

第2回 学びの科学がくつがえした伝統的な教育観

益川 弘如

益川 弘如

博士(認知科学)
聖心女子大学現代教養学部教育学科 教授
認知科学者。学習科学、教育工学、協調学習が専門。
著書に、「学びのデザイン:学習科学 (教育工学選書II)」(編著)、「21世紀型スキル: 学びと評価の新たなかたち」(翻訳)「アクティブラーニングの技法・授業デザイン」(共著)など。

授業の転換の必要性とその難しさ

前回のコラムでは、学校で実現していくべき授業を「目標到達型・教授中心型」「目標到達型・学習者中心型」から「目標創出型・学習者中心型」へ転換することが欠かせないと紹介しました。しかし、実際には、なかなか転換しません。なぜ授業の転換が欠かせないのか、そして難しいのか考えていきましょう。

筆者は現在、多くの学校現場に関わっていますが、そこでの授業づくりや評価への助言は、単に学習指導要領の文言と対応づけているだけではありません。その背景にある「認知科学」や「学習科学」が蓄積してきた「人はいかに学ぶか」に関する知見に根ざして助言しています。中でも特に著者が大きな影響を受けたのが、故三宅なほみ教授と故波多野誼余夫教授の理論や考え方でした。

三宅なほみ教授は、学習科学の研究知見を日本に広げていくために、東京大学CoREFの組織を立ち上げ、「知識構成型ジグソー法」という枠組みを開発・活用して「目標創出型・学習者中心型」の授業づくりのコミュニティを形成してきました。

東京大学CoREFの取り組みは、別の回に紹介しますが、志を共にする教員コミュニティ自体を広げていかないと個々の授業の転換は難しい、という研究知見にも基づいて行われています。そもそもなぜ、そんなに授業の転換は難しいのでしょうか?

波多野誼余夫教授は、稲垣佳代子教授との共著『人はいかに学ぶか〜日常的認知の世界』(中公新書, 1989年)の中で、教師をはじめとした多くの人が「伝統的な教育観」に捕らわれていると説明しています。

伝統的な教育観では、学習者の存在を「教えられないと何もできない」という「受動的で有能ではない」という前提に立ちます。何かを学ぶときには「教える人」がいないと学べないはずという考え方です。

そのような立場であれば教師は「すべてを教えなければならない」ことになり「目標到達型・教授中心型」の授業が実践されます。学習者にとっても「教わる」ことが目標になるので「受動的な学び」にならざるを得ず、知的好奇心が高まらないのです。学習の動機づけが低い状態に対して、教師がいろいろ工夫したとしても、基本的に「すべてを教えなければならない」なので一定の内容に到達させるために学習活動だけ工夫した「目標到達型・学習者中心型」に留まってしまいます。

しかし、多くの学習に関する研究から、人は「能動的で有能である」ということが証明されています。日常生活で様々な経験をする中で、自ら知識を構成する「学ぶ力」をだれもが持っているのです。人は経験の繰り返しから原則や理論を自然に創り出したり、自分の経験だけでなく他者の経験も取り込んで、さらに知識を高めたりする存在です。

このような前提に立つと、教師の役割は「教えること」から、学習者が能動的に学習できる「学習環境」を準備することに重点が移ります。授業中の役割も、学習者が考えたり対話して過程を聞いたり把握するのが主となるでしょう。一人ひとりなりに知識を構成することが大事ですので、学びたい目標が常に創出される「目標創出型・学習者中心型」の授業が自然と求められます。

旧来の教育観に反して、学習者は「能動的で有能である」という前提に立って、教育を考えていくことが重要なのです。しかし、「受動的で有能ではない」という前提に立った教育が現在でも多いのが現実です。

昔の心理学では、受動的で有能ではない、という研究結果もありました。その実験では、実験統制という目的のためとはいえ、無意味綴りを覚えるという学習者にとって学びたいかどうか関係のない学習素材が用いられていました。興味のない事柄をペーパーテストで再生する学習には有効な研究ですが、テストの場面でしか役立たず、本人にとって役立つ知識かどうかは別問題です。

このような評価の考え方が主流である限り伝統的な教育観は変わりません。「能動的で有能である」という前提に立って、学習者の生涯を考えた授業づくりに取り組みたい教師の仲間が情報交換しながら、社会の教育観全体を変えていく必要があるでしょう。

 

定型的熟達者と適応的熟達者

次に、社会に出て特定領域の職業のプロフェッショナルになるという視点から「能動的で有能である」という前提に立つ重要性について考えてみましょう。

波多野誼余夫教授は、特定領域のプロフェッショナルを、「定型的熟達者」と「適応的熟達者」の2種類に区別しました。そして「適応的熟達者」の方が、その領域に対して深い知識を持っていて、さらに深め続けることができる力を持っていると分析しました。

「定型的熟達者」とは、一定の事柄を素早く正確にこなすことができる熟達者です。初心者に比べると熟達しているのですが、その行為の意味まで理解していなくても繰り返し「手続き」を練習することで実行可能となり、「目標到達型・教授中心型」「目標到達型・学習者中心型」で教授可能です。しかし、予期せぬ状況や異なる環境下では実行できません。いわば定型(ルーチン)はこなせるけど「応用がきかない」ということになります。

一方「適応的熟達者」とは、予期せぬ状況や異なる環境下になっても、自ら考え工夫してこなすことができる熟達者です。適応的熟達者は、行為の意味まで理解しており、常に向上心を持って、よりよい方法はないか「問い」を持ち、環境に応じて持っている知識を柔軟に組み替えたり加えたりしながら、新しい知識を構成していくことができます。

このように持っている「知識のかたち」によって、その先の熟達の深まり方が変わるのです。「適応的熟達者」は「能動的で有能である」状態を発揮しつづける、いわば「目標創出型・学習者中心型」の学び方を日々実行している人と言え、これからの知識基盤社会に求められる「新しい知識を生み出す力」を持っているといえるでしょう。

波多野誼余夫教授は、「適応的熟達者」が育つ環境として4つの条件を整理しています。その条件を著者がまとめ直したものが以下の4つです。

 

(1)絶えず新奇な問題に遭遇しすることで「問い」が生まれ、解決しなければならない環境

(2)対話的な相互作用に従事する機会が多くあり、自分の考えを見直す機会が多い環境

(3)活動をこなすだけという忙しさから開放され、考える余裕が確保されている環境

(4)結果を重視する集団環境でなく、理解を重視する集団環境に所属していること

 

「目標創出型・学習者中心型」の授業と「適応的熟達者」が育つ環境の条件は、重なる部分が多いのではないでしょうか。次回のコラムでは、効果的な学習環境下で「上手く学べている」ときの人の思考過程とはどのような姿なのか、その理論を紹介します。また、「教師の説明を聞いて学ぶ」ときに起きている思考過程や、「テストを解いている」ときに起きている思考過程についても考えていきたいと思います。

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