自分への執着
アドラーは「自分への執着」(Ich gebundenheit)が個人心理学の中心的な攻撃点だといっています(Alfred Adlers, Individualpsychologie)。
自分さえよければいいと考え、自分を中心に考え行動する子どもがいます。そのような子どもは自分にしか関心がありません。
勉強がよくできる子どもも例外ではありません。アドラーは「天才と信じられている子ども、例外的に聡明な子どもたち」について論じています(『個人心理学講義』)。
愛されない天才児
「彼〔女〕らは、いくつかの科目に秀でているので、他のことにおいても賢く見えることは容易である。しかし、彼〔女〕らは感受性が強く、野心があり、同級生にあまり好かれているわけではない」
「このような天才児は賞賛されるけれども、愛されない」
あまりに勉強のできる子どもがクラスにいると、他の子どもたちはその子どもが勉強できることを賞賛しても、どんなに頑張ってもかなうはずはないと思い、劣等感を持つことになります。
その上、勉強ができても、自分のことしか考えない子どもは好かれることはありません。
勉強ができると思われたいために、姑息な手を使っていい成績を取ろうとします。そのような子どもはクラスの中でたちまち孤立してしまいます。
誰でも何でも成し遂げることができる
アドラーは「誰でも何でも成し遂げることができる」という「民主的な格率」を持ち出します。この格率は「天才児の気勢を削ぐ」ことになります。
アドラーは才能が遺伝することを否定するのです。
「能力は遺伝すると信じることは、子どもの教育に関してかつてなされたおそらく最大の誤りである」(前掲書)
アドラーのこの見解は当時、科学的ではなく、単なる楽観的な推測にすぎないと批判されましたが、アドラーがこのようにいったことにはわけがありました。
親や教師は子どもを教育し望む成果をあげられなかったら、遺伝のせいにするからです。
しかし、「誰でも何でも成し遂げることができる」という格率は、才能がある(とされる)人だけではなく、誰もが努力すればそうすることができるという意味で「民主的」なのです。
この格率を受け入れ、勉強ができるのは才能ではなく努力の結果だと知っている子どもは「自惚れたり、過度に野心を持つ」ことはありません。「天才」だったからではないことを知っている子どもは、期待されているかどうかは問題にせず、ただ努力します。
ところが、そうでない子どもは「いつも期待されているという重圧を担い、常に前へと押し出され、あまりに自分自身のことに関心を持っている」のです。
さらに、才能を認めないアドラーは、すべては「自力で身につけられた創造力」であり、「天才とはただ勤勉である」というゲーテの言葉を引いています(“Schwer erziehbare Kinder,” In Adler, Alfred, Psychotherapie und Erziehung Band I)
他者貢献
アドラーは天才はクラスの中にいることが必要だといいます。
「賢い子どもが、課外学習、例えば、絵画や音楽等々に時間を費やせば役に立つだろう。賢い子どもがこのようにして学ぶことは、クラス全体に益がある。他の子どもたちを刺激するからである。クラスからよくできる生徒をいなくするのはいい考えではない」(『子どもの教育』)
クラスの中に優秀な子どもがいれば、その子どもから刺激を受け、クラス全体が進歩するというのです。ただし、彼〔女〕らが「愛される」ためには、自分のことばかり考えているようではいけないのです。
「人は教えている間、学んでいる」(Dum docent discunt)というラテン語があります。勉強が先に進んでいる子どもはそうでない子どもに教えなければなりません。そうすることを嫌がる子どもがいれば、教えることを損だと思ってはいけないと教えるべきです。
競争から協力へ
教師が気をつけるべきことは、天才だけでなく、誰もが勉強を他者との競争と捉えさせないことです。
「子どもたちは他の子どもたちが自分よりも先に進むのを見たくない。そこで競争者に追いつくまで労を惜しまないか、あるいは、逆戻りして失望し、自己欺瞞に陥ってしまう」(前掲書)
勝てると思った子どもは勉強するが、勝てないと思った子どもは勉強しなくなるということです。
もしも勉強がただ自分のためではなく、他者のためでもあることを知っている子どもは他者と競争することはありません。勉強に努力は必要で、時に苦しいことはありますが、他者に貢献するために勉強するということを知っていれば、努力を止めることはないでしょう。
親や教師は、子どもたちを競争ではなく、協力するようにしなければならないのです。