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ミライノマナビコラム  ― 未来を生きるアドラーの教え

2019.8.2

第6回 承認欲求からの脱却

岸見 一郎

岸見 一郎

日本アドラー心理学会顧問
1956年京都に生まれる。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。
『嫌われる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教え』(ダイヤモンド社)にて日本にアドラー心理学を広く紹介。近著に『子どもをのばすアドラーの言葉―子育ての勇気』(幻冬舎)、『幸せになる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教えII』(ダイヤモンド社)など。

 

なぜ人は保身に走ってしまうのか

なぜ学生時代には優秀だったに違いないエリートたちが不正を平気でするようになるのか考えない日はありません。政治家も官僚も真実を語れば冷遇されることを知っているので、じっと俯いて口を閉ざしているように見えます。

このような人は、生活を人質に取られているので、上司のいうことに逆らえないというようなことをいうかもしれませんが、結局のところ、自分のことしか考えていないのです。売り上げを伸ばすためには、客が求めている以上のものを売りつけようとしたり、ノルマを達成するために客の利益にならないことが明らかな契約を結ばせようとする人も同じです。上司から指示されたとでもいうのでしょうか。

このような人は大人になって初めて自己保身に走るようになったわけではありません。アドラーは誤ったライフスタイルを身につけた子どもがいると考えます。これは端的にいえば、共同体感覚の欠如です。

自分さえよければいいと考え、自分を中心に考え行動する子どもは自分にしか関心がありません。この自分にばかり向けられている関心を他者に向け変えることが教育の仕事です。共同体感覚は英語訳ではsocial interest(他者への関心)といいます。教育は、自分しか向けられていなかった関心(self interest)を他者への関心に向け返ること、共同体感覚の育成です。

 

認められようとする努力が不自由をもたらす

なぜ、自己中心的になるかといえば、人から認められたいからです。アドラーは次のようにいっています。

「認められようとする努力が優勢となるや否や、精神生活の緊張が高まる」(『性格の心理学』)

「認められようとする努力」は、『嫌われる勇気』(岸見一郎、古賀史健 ダイヤモンド社)では「承認欲求」という言葉で説明しました。

あまりに認められようとすると緊張が高まるというのは、人前で話をする人が緊張する場合を思い浮かべればよくわかるでしょう。

人事面で不利な目にあいたくないので本当のことをいわないで上司に認められたいと思う人は、上司には認められたとしても、同僚や家族、さらに世間からはよく思われないかもしれないと思うと緊張するでしょう。

「この緊張は、人が力と優越性の目標をはっきりと見据え、その目標に、活動を強めて、近づくように作用する。そのような人生は大きな勝利を期待するようになる」

認められたい人は、優れていることと力を持つことを目標に行動します。優れようとする人は等身大以上の大きな目標を設定し、他の人以上であろうとするのです。本当に優れている人は優れていることを誇示しません。

「このような人は現実との接点を見失うに違いない(unsachlich)。なぜなら、人生との連関を失うからであり、常に、〔人に〕どんな印象を与えるか、他の人が自分についてどう考えるかという問いにかかずらうことになるからである。行動の自由は、そのことによって、著しく妨げられることになる。そして、最も頻繁に現れる性格特徴があらわになる。虚栄心である」

上司に認められたい一心で嘘をつけば、本来、自分はそのようなことをすることは許し難いので、自分の人生なのに心ならずも他人の人生を生きることになります。

人間について悲観的ではないアドラーなら「心ならずも」自分の信念を曲げて嘘をつくと見るでしょうが、プラトンであれば真実を隠す、虚偽をいうような不正こそ自分にとって善(得)であると見誤っていると考えるので、「心ならず」ではないと考えるでしょう。

人にどう思われるかばかり気にする人は、自分で何も決められず、人によく思われたいと考えるので、この場合も自分の人生なのに人の人生を生きているという意味で現実との接点を見失っています。

「行動の自由は、そのことによって、著しく妨げられることになる」とアドラーがいっていることの意味もよくわかるでしょう。人に合わせてばかりでいれば、自分らしく生きられず、不正を告発すること、上司から命じられる無理難題にも抗議できないような生き方は不自由な生き方だといわなければなりません。

 

嫌われる勇気

嘘をついても平気な人は論外なのですが、少しでも認められたいと思って嘘をついてしまうような人には、人から認められようと思わなくていいという助言をします。

「嫌われる勇気」という言葉をアドラー自身は使っていませんが、これは人から嫌われることを恐れないという意味です。アドラーであれば「人から認められようとする努力」をやめなさいというでしょう。

それは自分勝手に生きることを推奨しているのかという質問をよく受けますが、自分が所属する共同体(学校、会社、地域社会、国家など)のことを本当に愛している人であれば、不正を見逃そうとはしないはずです。不正を告発することができるためには、自分ではなく他者のことを考えなければなりません。決して利己的な生き方がいいといっているのではなく、自分が人からどう思われるかを気にかけずに他者に関心を持ち、本当の意味で他者に貢献することこそ大切なのです。

 

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