家庭エゴイズム
家庭は共同体感覚を発達させることに適しているが、家庭教育の現状を見ると、それもある程度までのことだとアドラーは指摘しています。なぜアドラーは、共同体感覚を発達させるためには家庭教育に限界があると考えるのかといえば、既に見たように、甘やかされて自己中心的な見方を身に着けることになったり、母親に自分だけを「仲間」と思わせて他者を「敵」と見なすように働きかけられたり、親にすら愛されず憎まれたりした子どもたちは他者を敵と見なし、他者に協力し貢献しようとは思わなくなるからです。
アドラーは次のようにいっています。
「今日、家庭教育において主役を演じているのは、様々な程度の悪化している家庭エゴイズムである。これは自分の子どもがたとえ他の子どもを犠牲にしても、とりわけ庇護され、何か特別なものと見なされることを一見正当に要求する。そこで、まさに家庭教育は、子どもたちに、他者に対して常に優越しなければならず自分を優秀な者と見なすような考えをいわば植えつけることによってもっとも重大な誤りを犯しているのである」(『性格の心理学』)
親は子どもが優秀であることを期待し、子どももたとえ他の子どもを犠牲にしてでも自分が特別で優秀であると思われることを当然だと思うようになります。アドラーはこれを「優越性の追求」と言い換えています。
子どもの虚栄心
アドラーは、別のところでは次のようにいっています。
「今日の家庭における教育が、力の追求、虚栄心の発達を並外れて促進していることは疑いない」(前掲書)
ここで虚栄心という言葉をアドラーが使っていることが唐突に思えるかもしれませんが、アドラーは「虚栄心においては、あの上に向かう線が見て取れる」(前掲書)といっているのです。「あの上に向かう線」が「優越性の追求」です。自分がより優れた者になる努力をすること自体には問題はなくても、教育が虚栄心の発達を促すとなると方向を誤ることになります。
まず、子どもについていえば、勉強が親に認められるためのものになります。
「認められようとする努力が優勢となるや否や、精神生活の緊張が高まる」(前掲書)
子どもたちは親に認められようと思って緊張しています。親の期待通りに優秀であることができれば、本当に小さい子どもにもいばり散らすことが見られるとアドラーはいっていますが、このような子どもが大人になれば職場でパワハラをするようになるのは目に見えます。
「この緊張は、人が力と優越性の目標をはっきりと見据え、その目標に、活動を強めて、近づくように作用する。そのような人生は大きな勝利を期待するようになる」(前掲書)
問題は「勝利」できない時です。親の期待を満たさない子どもは親から見放されます。積極的な子どもであれば、親に公然と反抗するかもしれませんが、そうでない子どもは「自分を好まなくなった世界から退却し、孤立した生活を送る傾向を示すことが見られる」(前掲書)とアドラーは指摘します。
親の虚栄心
次に、親の虚栄心も問題です。
哲学者の三木清は、教育熱心も方向を誤るとよくないということを『現代の記録』の中で書いています。
「有閑の婦人が教育に熱心であるのは結構なことであるが、熱心も方向を誤ると却って害悪を生ずるのである。東京の小学校の如きにおいては彼女等が毎日のように学校へ押し掛ける。しかし彼女等の脳裡にあるのはクラスの全体の子供でなく、自分の子供だけであり、そして特に上級の学校へ入学させることである。彼女等の希望は、自分の子供を一般に「善い」学校へ、或いは有名な学校へ入れて貰うことだ。善い学校へ入れようとすることは一面我が国民の進歩的な性質を現わすものであるが、他面それは実質の問題であるよりも有閑の夫人の虚栄心の問題であることが多い。子供の素質などはあまり考えないのである」(『現代の記録』『三木清全集』第十六巻)
入学試験の苦労から子どもを早く解放させたいというような親の考えがあるのかもしれませんが、受験などはその後の人生で経験する苦しみを思えば何ということもありません。
ある時、電車に乗っていると、同じ車両にいた母親が幼い娘に「仏壇はなんて数えるか知ってる?」とたずねました。子どもはすかさず「一基、二基」と答えていました。幼い子どもにとって仏壇の数え方など日常生活で必要とは思えないので驚いていたところ、次に母親は「じゃ、船は」とたずねました。小学校の入学試験にこうした問題が出るのでしょう。
この親子を見て、親の虚栄心のために、親子が今しか経験できない時を過ごすことを犠牲にしてはいないか考えてほしいと私は思いました。
ギリシアの哲学者デモクリトスは「教育は順境の時は飾り、逆境の時は避難所」といっています。
しかしながら、教育はそれを学んだ子どもがやがてエリートとして社会に出た時に身を飾る「飾り」ではありません。当然、親が誇るようなことではありません。日々勉強するのは、今の危機的状況を生き抜くための力を身に着けるためであり、もちろん、自分のためだけに勉強するのではありません。