無責任な子ども
子どもたちが学ぶべき重要なことの一つが「責任」です。今の世の中には学生時代には勉強ができた人でも仕事に就くと金儲けや立身出世のことしか考えず、不正を隠し嘘をついても何とも思わない無責任な人がいます。これは教育の失敗としかいえません。どうしてこんなことになってしまったか考えなければなりません。
アドラー心理学では、あることの最終的な結末が誰に降りかかるか、あるいは、あることの最終的な責任を誰が引き受けなければならないかを考えた時に、そのあることが誰の課題かという言い方をします。
例えば、勉強しなかったために試験でいい成績を取れなかったら、その結末は子ども自身に降りかかります。そして、そのことの責任、つまり、志望校の選択範囲が狭まるとか入学試験に失敗するという形で責任を取らなければなりません。
結末は子ども自身に降りかかり、子どもが自分で責任を取るしかありません。勉強は子どもの課題だからです。
ところが、子どもの課題なのに、親は勉強に口出しをしたり、子どもが勉強をしなかったら叱ったりします。親がこんなことをすると、子どもは自分の課題なのに親の課題であると思い、いい成績が取れなかった時に親を責めます。
心情倫理と責任倫理
マックス・ウェーバーは「責任倫理」と「心情倫理」を区別しています(『仕事としての政治』)。
責任倫理は行為の結果に責任を負うべきであると考えます。他方、心情倫理は行為の心情の純粋性を重んじ行為の結果は問いません。責任倫理が結果を重視するのに対して、心情倫理は自己の良心に対する責任を重視します。
勉強は結果を出さなければなりません。医師になって患者を救いたいという動機が純粋でも、医学部に合格できなければ医師になることはできません。
しかし、結果さえ出せばいいのかといえばそうではないでしょう。結果だけが問題であれば、必ずしも良心的に行為する必要はないことになりますが、この考えが無責任であるのは明らかです。カンニングをしてでも合格しさえすればいいことにはならないからです。
ウェーバーが心情倫理と責任倫理を区別したのは、一方が責任を問題にせず、一方が問題にするということではなく、前者が自己の人格に対する責任を問題にするのに対して、後者は社会に対する責任を問題にするということです。
受験生は結果を出せるように勉強に励まなければなりませんが、良心的でなければなりません。他方、たとえ動機は純粋でも結果を出せなければ勉強の仕方に問題があったということです。
親は何ができるか
なぜ子どもが結果さえ出せばいいと考えるようになったかといえば、親や教師が子どもを叱ったからです。本来、勉強の結末は自分だけに降りかかり、責任は自分しか引き受けることができないので、子ども自身が一生懸命勉強するしかないのです。
それなのに、大人が子どもの課題に介入し、子どもを叱ると、子どもは叱られないためにはどうすればいいかと考え始めるようになります。
親や教師は何ができるか。残念ながら親ができることはありません。教師は当然わかりやすい授業をしなければなりませんが、結果を出すことは子どもの課題なので子どもが頑張るしかないのです。
教師が自分の指導を棚上げにして、子どもに悪い点数のついた答案用紙を家に持ち帰らせると何が起こるかという想像をすることは必要です。子どもは親に叱られるでしょう。そうすると、やがて答案用紙を隠すようになります。カンニングをしたり、試験を受けなかったりします。試験を受けなければ結果が出ないからです。
そのようなことにならないように、大人は子どもの動機の純粋性に注目しなければなりません。勉強についていえば、よい結果を出すのは子どもの課題であり、親が子どもの代わりに勉強することはできません。親ができることは、結果はよくなくても頑張っていたこと、決して最初から勉強を放棄していなかったことに注目して声をかけることです。これは心情倫理の観点から親がしなければならないことです。