人生の困難に対する態度として、「どうすることもできない」と諦める悲観主義と、忍耐強く「何をするべきか」を考え、勇敢に立ち向かえる楽観主義があります。アドラーは、両者の差は失敗に対する考え方にあり、それは教育で身につける重要な資質だと指摘しました。失敗に対する考え方には、保護者の子どもへの接し方も影響を及ぼします。アドラーの言葉をもとに考えていきましょう。
悲観主義者
どんなことも努力しなければ、達成することはできません。ところが、まわりを見て、楽々と成果を上げていると見える人ばかりだと思ってしまい、自分も頑張ってみようとは思わないで、できることは何もない、どんなに努力をしてもどうにもならないと考え、努力をしなくなる人がいます。
アドラーが、学生にしばしばこんな話をするといっています。
「われわれの遠い祖先がある時、木の枝にすわっていると想像しなさい。その祖先にはまだ巻き尾があり、人生があまりに惨めなので、何をするべきか考えている。別の人がその人にいった。『そんなことを思い悩んでどうなるというのだ。事態はわれわれの力を超えている。どうすることもできない。木の上にいるのが一番いい』。
もしもこのように説得した人の考えが受け入れられていたらどうなっていたであろう。われわれは今もずっと木の上にすわり、巻き尾を持っていただろう。実際はどうなったか。木の上にいた人は今どこにいるだろう。絶滅してしまったのだ」(『個人心理学の技術II』)
このように、できることは何もないと考えて何もしない人のことをアドラーは「悲観主義者」と呼んでいます。アドラーは、「人生の要求に対する答えが誤っていた」といいます。「どうすることもできない」という答えは誤りだということです。
楽観主義者
反対に、「楽観主義者」は次のような人だとアドラーはいいます。
「楽観主義者は、性格の発達が全体として真っ直ぐな方向を取る人のことである。彼〔女〕らはあらゆる困難に勇敢に立ち向かい、深刻に受け止めない。自信を持ち、人生に対する有利な立場を容易に見出してきた。過度に要求することもない。自己評価が高く、自分が取るに足らないとは感じていないからである。そこで、彼〔女〕らは、人生の困難に、自分を弱く、不完全であると見なすきっかけを見出すような人よりも、容易に耐えることができ、困難な状況にあっても、誤りは再び償うことができると確信して、冷静でいられる」(『性格の心理学』)
楽観的な人は、悲観的な人とは違って、困難で危機的な状況を前にしても、できることは何もないと諦めたりしないで、「何をするべきか」を考え、どんな困難にも勇敢に立ち向かいます。
その際、困難を深刻に受け止めません。深刻であるということと真剣であるということは違います。真剣に取り組み、努力しなければどんな困難も解決することはできません。
もっとも、どれほど努力をしても結果を出せないことはあります。しかし、そのような時でも、決して深刻になって悩むのではなく、次の機会に目標を達成するために努力をさらに重ねなければなりません。「誤りは償うことができる」と確信している人ならできます。
ここでアドラーがいう「自分を弱く、不完全であると見なすきっかけを見出すような人」とはどんな人か説明がいります。初めから困難を前にどうすることもできないと考えている人は、何もしない理由が必要なので、人生の困難に耐えられない理由を探します。
それが「弱いこと」や「不完全であること」であり、自分がそのようであると見なす「きっかけ」というのは、試験で望む結果を出せないというような失敗をすることです。だから、再起を図ろうとはしません。
不完全であることを認めることは「過度に要求」しない、つまり、とても達成できないような目標を掲げるというようなことをしないために必要ですが、できることもしない口実になってしまいます。失敗を親からきつく咎められるというようなことも、自分が弱い人間であると見なすきっかけになります。
かくて、このような人は、最初から、困難を克服する努力をしないで、何か適当な理由を見出した上で、困難に屈し、どうにもならないと嘆いて何もしないのです。
失敗を新しい課題と見る
アドラーはこんなこともいっています。
「勇気があり、忍耐強く、自信を持ち、失敗は決して勇気をくじくものではなく、新しい課題として取り組むべきものであると考えるように教育する方がずっと重要である」(『子どもの教育』)
自分にできないことなど何もないと考える人は、楽観主義者というよりは「楽天主義者」です。そのような人は、自分の力が及ばないようなことについても、何とかなるといい、それでいて実際には、悲観的な人と同様、何もしないのです。
楽観的な人は、どうにもならないと思って実際何もしないのでも、また、何ともならないと思って何もしないのでもなく、できることを忍耐強く実行します。
「新しい課題として取り組むべきものであると考える」というのは、たとえ失敗しても、もうこれからどれだけ頑張ってもどうにもならないと思うのではなく、方法や視点を変えて、新たに課題に挑戦するということです。
このような勇気は本人が育んでいくしかありませんが、まわりの大人も子どもが深刻にならないように配慮しなければなりません。