日頃から「自分はやればできる」といいながら、ほとんど努力をしない、試験を受けない、という子どもがいます。一見、自信過剰のように思えるこの言動ですが、アドラーによると「劣等感の兆候」なのです。どういうことなのでしょうか。また、そのような子どもに対して親や教師には何ができるのか、考えてみましょう。
可能性の中に生きる
アドラーが次のようにいっています。
「よい意図を持っているだけでは十分ではない。われわれは、社会において大切なことは、実際に成し遂げていること、実際に与えていることであるということを教えなければならない」(『個人心理学講義』)
「よい意図を持っている」とは、何かをするという決意を表明するというようなことです。「今年は頑張って勉強する」とは誰でもいえますが、そのことと実際に勉強をし結果を出すことは別問題です。
多くの場合、決意表明で終わってしまいます。なぜそうなるかといえば、「やればできる」という可能性の中に生きたいからです。そして、可能性の中に生きるのは、結果が出るのを恐れるからです。
勉強をしない子どもに「なぜ勉強しないのか」とたずねてみても、おそらく自分でもわけはわかっていないでしょう。そのわけの一つが、結果が出るのを恐れることです。
頑張って勉強しない子どもに「もっと頑張ればいい成績が取れるのに」といっても頑張らないでしょう。いい成績を取りたくないわけではありません。頑張って勉強しなかったからいい成績を取れなかったというのであれば、受け入れることができます。次の機会に「もしも」頑張ればいい成績を取れると思えるからです。これが可能性の中に生きるということです。
しかし、頑張ったのにいい成績を取れなかったことは受け入れたくはありません。自分の無能があらわになると考えるからです。さらに、結果を出すことを恐れる子どもは、結果を出さないために試験を受けないかもしれません。試験を受けなければ結果は出ないからです。
「はい、でも言明」
そのような子どもでも勉強をしなくてもいいと思っているわけではありません。なぜ勉強しないのかとたずねたら、こういうでしょう。
「勉強をしなければならないのはわかっている、でも」
アドラーは、これを「はい、でも言明」と名付けています(前掲書)。試験など課題に取り組まないためには理由が必要です。そこで、「でも」といった後で、できない理由を持ち出します。例えば、「勉強しなければならないのはわかっている、でも怠惰なので勉強できない」というようなことをいいます。
しかし、それなら勤勉になればいいのですが、怠惰を克服しようとはしません。「でも」といった人は「しない」と決めているのであり、「する」か「しない」かで葛藤しているのではありません。
さらに、「もしも怠惰でなかったら、できないことなど何一つない」というようなことをいうでしょう。
怠惰は勉強しない理由であるだけでなく、さらには、いい成績を取れなかった時に、「失敗したという感情を慰める」ことになります。しかも、こういっておけば、取るに足らないことでも何か一つ成し遂げたら、賞賛されるのです(『子どもの教育』)。
無論、アドラーはこういうことをよしとしているのではなく、「劣等感の兆候」だといっています(『個人心理学講義』)。才能がない、自分の能力に限界があるというのも、「でも」という言葉の後で使われます。子どもであれば、頭が悪いというようなことをいうでしょう。
そのことを踏まえて、アドラーは「誰でも何でも成し遂げることができる」(前掲書)といっているのです。「無能であること」を勉強ができない理由にすることは封印しているので、自分のことをできないと思っている子どもには、ずいぶんと厳しい言葉に聞こえるでしょう。
達成できなかったからといって無能というわけではない
それでは、劣等感があり、課題に取り組む勇気を持っていない子どもはどうすればいいか、教師や親はどう援助すればいいか考えてみましょう。
望む結果を出せなかったら、努力するしかないのです。何事も一朝一夕に成し遂げることはできません。とにかく、最初の一歩を踏み出すしかありません。
そのためには、まず「でも」というのをやめましょう。これは意識しなければ、誰もが使う言葉です。「でも」といいそうになったら口をつぐんでみるのです。
ただし、何かを達成できなかったからといって、無能であることにはならないことも知っていなければなりません。試験というのは勉強すれば必ずよい結果を出せるとは限りません。一度失敗したからといって、自分には能力はないと思ってしまうと、入学試験よりもはるかに難しい人生の課題を無能であることを理由にして逃れるようになります。
次に、人からどう思われるかを気にするのもやめましょう。親や教師の期待を満たすために勉強するわけではないのです。大人を喜ばせるために勉強している子どもは、自分の評判、自分がどう思われるかということにしか関心がありません。
そのような子どもの関心は自分にしか向いておらず、他者に関心がないので、勉強が苦しくなったり、望む結果を出せなかったりしたら、まったく勉強しなくなってしまうかもしれません。
勉強するのはただ自分のためだけではなく、他者に貢献するためであることを知っている子どもは、まわりの大人がどう思うかは気にならなくなるはずです。