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ミライノマナビコラム  ― 未来を生きるアドラーの教え

2023.8.4

第22回 真の優越性の追求

岸見 一郎

岸見 一郎

日本アドラー心理学会顧問
1956年京都に生まれる。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。
『嫌われる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教え』(ダイヤモンド社)にて日本にアドラー心理学を広く紹介。近著に『子どもをのばすアドラーの言葉―子育ての勇気』(幻冬舎)、『幸せになる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教えII』(ダイヤモンド社)など。

 

アドラーは「優越性の追求」が個人の成長や技術の進歩の原動力になると考えていました。ところが今日では「優越性の追求」が進歩の原動力とならず、一見よく似ていながら全く異なる「優越コンプレックス」ばかりが見られるようになっています。この両者はどう違うのか、アドラー自身も気づかない内に陥っていた個人的な優越性の追求との混同について考えてみましょう。

 

個人的な優越性の追求

 人間は生まれた時は自力では何もできず、大人の不断の援助がなければ片時も生きていけません。人間は何とかしてこのような無力な状態から脱したいと願います。

 このような身体的な無力から脱しても、「理想の自分と現実の自分との比較」から生まれる「劣等感」は誰もが持ち、より優れたいという思い(アドラーは「優越性の追求」と呼んでいます)は、「健康で正常な努力と成長への刺激である」とアドラーは考えています(『個人心理学講義』)。

 科学の進歩について、アドラーは次のようにいっています。

「科学の進歩は、人が無知であることと、将来のために備えることが必要であることを意識している時にだけ可能である。それは人間の運命を改善し、宇宙についてもっと多くのことを知り、宇宙をよりよく制御しようとする努力の結果である。実際、私には、人間の文化のすべては劣等感にもとづいていると思える」(『人生の意味の心理学』)

 しかし、今日、劣等感も優越性の追求も、「人類のあらゆる進歩の原動力」(前掲書)になっていないように見えます。

 他者と比べて特別よくなろうと思うのは、本来の優越性の追求ではありません。他者と競争するのでなくても、他者の期待に応えようとするのも、特別よくなろうとすることです。

 アドラーは本来の優越性の追求と区別するために、特別よくなろうとすることを「個人的な優越性の追求」とか「優越コンプレックス」という言葉で表しています。自己中心的な人だけがこのような優越コンプレックスを持つようになるのでありません。たとえば次に示すようなアドラー自身の表現にさえ、誰もが特に意識しなければ落ちてしまう陥穽があります。

「すべての人を動機づけ、われわれがわれわれの文化へなすあらゆる貢献の源泉は、優越性の追求である。人間の生活の全体は、この活動の太い線に沿って、即ち、下から上へ、マイナスからプラスへ、敗北から勝利へと進行する」(前掲書)

 アドラーがいうように、人間の生活は「下」「マイナス」「敗北」から「上」「プラス」「勝利」へ進行するというのであれば、優越性の追求はマイナス、劣等の状態から始まることになります。

 知らないことがあれば、その状態から脱するために知識を得ようとするでしょう。しかし、無知の状態が下、マイナスであるわけではありません。まして、敗北ではありません。むしろ、知らないから知りたいと思うのであり、それが科学や他の学問を進歩させてきたのです。

 

「上」「下」ではなく「前」

 アドラーがアメリカに活動の拠点を移した後、ウィーンでのアドラーの仕事を引き継いだリディア・ジッハーは、優越性の追求という言葉の問題を指摘しています。この言葉を使うと、「上」「下」のイメージが喚起されることは否めないというのです( Lydia Sicher, The Collected Works of Lydia Sicher)。

 実際、アドラーは優越性の追求の説明として人間の生活は「下」「マイナス」「敗北」から「上」「プラス」「勝利」へ進行するといっています。

 しかし、アドラーが人生は目標に向けての動きであり、「生きることは進化することである」という時(“Über den Ursprung des Strebens nach Überlegenheit und des Gemeinschaftsgefühls”) 、ジッハーは、この進化は「上」「下」ではなく、「前」に向かっての動きであると考え、ここに優劣はないといっています。

 人は皆それぞれの出発点から、目標に向かって前に進んで行くのです。平らな地平を皆が先へ進んで行くのであり、自分よりも前に歩いている人もあれば、後ろを歩いている人もいます。速く歩く人もいれば、ゆっくりと歩く人もいます。 しかし、違いがあるだけで、優劣はないということをジッハーは強調しているわけです。

 

貢献のために学ぶ

 学びについていえば、ゆっくり学ぶ人もいれば早く学ぶ人もいるというだけのことです。何を学ぶかも人によって違います。また、先に学んだ人は「前」にいるだけで、優れているわけではありません。学ぶことを苦しいと思う人は、無知の状態を劣っていることであり、そこから脱しなければならず、知識を得て他者との競争に勝たなければならないと考えているのです。

 ある中学生が医師にこんな質問をしました。

「医師が看護師や検査技師のような裏方と一緒に仕事をしていくことの重要性は何ですか」

 医師はいい質問だといった後で、次のようにいいました。

「看護師や技師は『裏方』ではないというところが重要だね」

 今の社会は上下関係の意識から脱却することは容易ではありません。将来医師になろうとするこの中学生は医師だけでは患者の治療ができないところまでは知っていますが、なお「上」に立とうとしています。

 真の優越性の追求は「あらゆる貢献の源泉」(アドラー『人生の意味の心理学』)であり、個人の優劣とは関係ないのです。

 

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