子どもが課題から逃げる時に「自分には才能がないから」と言い訳をすることがあります。アドラーによると、これは多くの場合、子どもにその思い込みを持たせたり、過剰な期待を背負わせたりしたからなのです。本コラムでも度々登場するアドラーの格率「誰でも何でも成し遂げることができる」を基にして、この思い込みから脱却するにはどうすればいいのか、考えてみましょう。
勉強しない子どもに起きていること
子どもが一生懸命勉強に取り組んで入れば親は安心ですが、時に勉強という課題に取り組まなくなることがあります。しかし、勉強をする、しないは本来子どもの課題なので、無理やり勉強させるわけにいきません。それでも、子どもが勉強をしなくなった時に、親や教師が子どもに一体何が起きているかを知っていなければ、援助することはできません。
勉強という課題から逃げ出そうとする子どもは、「Aであるから(あるいは、Aでないから)Bできない」という論理を使って、自分でも勉強しないことを納得し、まわりの大人も諦めさせようとします。このAとして、自他共にそういう理由があるのなら仕方がないと思える理由を持ち出します。
アドラーは「劣等コンプレックス」と「劣等感」を厳密に区別せず、劣等コンプレックスを強い劣等感という意味で使うことがありますが、何かを課題に取り組まないことの理由として持ち出すことを劣等コンプレックスといいます。
アドラーは次のようにいっています。
「劣等コンプレックスは、しばしば、自分には特別な能力は何一つないという考えと結びついている。才能のある人もいるが、それ以外の人には才能がないと考えられているのである。そのような見解は、それ自身が劣等感の表明である。個人心理学によれば、 誰でも成し遂げることができるのであり、少年や少女がこの格率にはついていけないと絶望し、人生の有用な面で目標を達成できないと感じるのは、劣等コンプレックスの表れなのである」(『個人心理学講義』)
ここでアドラーが「劣等コンプレックスは、しばしば、自分には特別な能力は何一つないという考えと結びついている」というのは、特別な能力がないことを自分に与えられた課題に取り組まないことの理由にするという意味です。
子どもはただ勉強しないというわけにはいかないので、勉強しない理由を持ち出し、「Aでないから(特別な能力がないから)Bできない(勉強できない、試験に受からない)」というでしょうが、アドラーは能力がないことを課題に取り組まない理由とは認めません。「誰でも何でも成し遂げることができる」と考えるからです。
アドラーがこのように主張した時、遺伝的な素質などを無視しているのではないかと批判されましたが、本当は能力があるのに、親や教師から叱責され、そのため自分には能力がないと思い込んでしまうことに対して警鐘を鳴らしたのです。過剰な期待がされる時にも、その期待に応えられないと思って、勉強をしなくなる子どももいます。
アドラーは、「誰でも何でも成し遂げることができる」という格率を採用すれば「非常に聡明な子どもを持つことができる」といっています(前掲書)。当然のことながら、勉強しなければ成績は伸びませんが、適切な教育を受け、かつ努力すれば「他の人ができることは何でも成し遂げる」(前掲書)ことができるのに、一度自分ができないと思ってしまうと、もう追いつくことはできないと思い、その思いが「一生を通じての固定観念」(『子どもの教育』)になってしまいます。そうなると、そこから脱却しようとしなくなります。
できないという思い込みから脱却するために
このような思い込みから脱却するためには、二つのことを知っていなければなりません。
まず、クラスの中で最上位、最下位、平均並みかは、頭脳の発達というより、心理的な惰性を反映しているということです。
「相対的な位置が時々変わることがあるという事実が重要である」(前掲書)
たとえ、ある時、悪い成績しか取れなくても、努力すれば位置を変えることはできます。それなのに、追いつけないと思って何もしないことが「心理的な惰性」ということの意味です。
私の教師としての経験でいえば、優秀な生徒、学生ができないという現実に直面した時に立ち直るのは容易ではありませんでした。
次に、知識を得ることは教育の最終目標ではないと知っていなければなりません。アドラーは「人生の有用な面で目標を達成できないと感じるのは劣等コンプレックスの表れ」(『個人心理学講義』)といっています。試験に合格することもたしかに「人生の有用な面で目標を達成」することに違いありませんが、究極の目標ではないのです。
アドラーは次のようにいっています。
「人生の意味は貢献、他者への関心、協力である」(『人生の意味の心理学』)
他者に関心を持っている人は、ただ自分のために知識を身につけるのではありません。子どもも同じです。身につけた知識を他者に貢献するために使おうと思えることが、人生の有用な面で目標を達成できると思えることであり、このように思えれば、時に学ぶことが苦しくても耐えることができ、先に見たように、努力したにもかかわらず「相対的な位置」が変わることがあっても、そのために学ぶことをやめたりはしないでしょう。