MIRAI NO MANABI ミライノマナビ

ミライノマナビコラム  ― 未来を生きるアドラーの教え

2024.8.2

第26回 子どもの個性を見る

岸見 一郎

岸見 一郎

日本アドラー心理学会顧問
1956年京都に生まれる。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。
『嫌われる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教え』(ダイヤモンド社)にて日本にアドラー心理学を広く紹介。近著に『子どもをのばすアドラーの言葉―子育ての勇気』(幻冬舎)、『幸せになる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教えII』(ダイヤモンド社)など。

大人に認められようと必要以上に勉強をする子どもがいます。一見、良いことのように思えるかもしれませんが、アドラーは、それを子どもの症例としてあげて、周りの大人が追い詰めていると考えます。子どもが自分自身のための学びができるように、周りの大人はどのように考え、接すればよいのでしょうか。

 

必要以上の努力

 子どもが一生懸命勉強しているのを見れば、親は安心でしょうが、気をつけないといけないことがあります。

 アドラーがある不眠を訴える男性のケースを紹介しています(『個人心理学講義』)。ある時、担任の先生が休んだ時にやってきた代理の先生が彼に可能性を見出し、勇気づけました。そのような扱いを受けたのは初めてのことだったので、その時から彼はいい成績を取るようになりましたが、自分が優れていると本当には信じられず、一日中、夜も遅くまで勉強しました。

 そのため、大人になってからも、何かを成し遂げるためにはほとんど一晩中起きていなければならないと考えるようになりました。このような人は過度に緊張しているとアドラーはいっています。

 アドラーは著作の中で、多くの子どもたちの症例をあげていますが、その中には頑張りすぎる子どもがいます。疲れやすく、頭痛を訴える九歳のロッテは、喜んで学校に行き、必要以上に勉強しましたが、これは「ある自信のなさを表現したものである」とアドラーは解釈します。

「何か大きなことをしたいのだが、無理な努力をした時にだけそうすることができると信じているのである」(『教育困難な子どもたち』)

 

大人を喜ばせるための勉強

 なぜこのようなことをするかといえば、自分の能力に自信がないからだけではありません。より重要なことは別にあります。

「特に教師を喜ばすために、彼女は過度の努力をする」(前掲書)

 最初に引用した男性の場合は、彼の才能を認めた教師を喜ばせようと思ったのでしょう。

「多くのことを期待された子どもたちが、勉強や仕事で失敗し始め、他方、以前はあまり才能がないと思えた子どもたちが追いつき、思いもよらない能力を表し始める」(『人生の意味の心理学』)

 取り組む課題が難しくなるということもありますが、それだけはありません。

「自分の力を試してみても、深淵の前に立っているように感じ、ショックの作用——自分に価値がないことがあらわになる恐れ——で退却し始める」(『生きる意味を求めて』)

 自分に能力がないことが、親や教師にあらわになることを恐れるのです。

「担ってきた期待を裏切ることになるのではないかと心配になるのである」(『人生の意味の心理学』)

 教師や親はそのように思っている子どもに、人の期待を満たすことは考えなくてもいいと教えなければなりませんが、実のところ、大人がそう思わせているのです。

 必要以上の無理な努力をする子どもは、そうしなければ大人に認められないと思っています。なぜそうなるかといえば、大人が子どものある面——成績がいいかどうか——しか見ていないからです。その面だけで大人の期待に応えようと思うものの、いつも必ずいい成績が取れるのなら話は別ですが、多くの子どもはそんな自信は持っていないからです。

 いい成績が取れなかった時、または取れないことが予想される時、それでもなお大人に認められたいと思う子どもは不正を行うことも辞しません。

 

「個人」を見る

 大人が子どもや生徒を「属性」で表すことがあります。「この子は賢い」というふうにです。この場合、「賢さ」が子どもの属性です。これは文字通り、人に「属するもの」であって、人自身ではありません。喩えてみれば、帽子のようなもので、帽子を脱いだからといって、自分でなくなるわけではありません。

 問題は、その属性に一般的な基準を当てはめようとすることです。賢いといってもその意味は子どもによって違うはずですが、例えば、どの学校に通っているかとか、偏差値が高いことを賢さの基準と見なします。子どもにそのような一般的な属性を付与する大人は子どもの個性を見ていません。

 勉強ができるという属性でしか子どもを見ていない親は、試験の点数を見た時に、その点数にしか注目しません。悪い点を取った子どもに、「頑張れば次はいい点を取れる」というようなコメントをした時、子どもは自分は親から個人として見られていないと感じるでしょう。

 親は量で計れるような属性だけで子どもを見るのをやめなければなりません。悪い成績を取ったからといって、子どもが子どもでなくなるわけではありません。親が他の面も見ているとわかれば、子どもは親に認められようと必要以上の努力をしなくてすみます。

 子どもは親の付与する属性に自分を合わせる必要はありません。親が自分をはめようとする枠組みから出なければなりません。親の期待に応える必要はないのです

 属性は個性をなくします。属性に合わせようとしてしまうからです。自分は勉強ができると思っている子どもは、他の人からもそういわれるようになると、賢いという属性に自分を合わせようとするので、いっそう勉強をし行動面でも問題を起こしたりしなくなりますが、個性的ではなくなります。そんなふうに子どもが育ってもいいものか、親はよく考えなければなりません。

 

Category カテゴリ―