教科で教える
オーストリアの心理学者、精神科医であるアルフレッド・アドラー(1870〜1937)は、もともと社会主義に強い関心を持っていましたが、政治の現実に失望し、やがて多くの子どもに影響を与えうる教育改革こそがこの世界を変える有効な手段を提供すると考えるようになりました。
ここで、教育改革という言葉を使いましたが、教育方法やカリキュラムを変えるというようなことではありません。アドラーは、「教科を教えるのではなく、教科で教える」ことの重要性を説いているのです。教科を教えるのでなければ、アドラーが一体何を教えるといっているのでしょうか? それをこれからお話しします。
教育はただ知識を教えるだけではありません。その知識を使える力を身につけさせることは大切なことです。しかし、アドラーはさらにそれ以上のことを教育に求めています。
目薬に喩えていえば、目薬を投与する時に、それがどんな薬なのか、成分や効能、また投与方法、量、頻度を知ることは薬を使う以上絶対に必要ですが、そもそもその薬を投与する眼そのものについて知らなければなりません。どんなに眼病に効くという薬でも、どの眼にも使えるわけではないからです。
教育についても、知識を与える、さらにその知識を使える力を身につけさせる「子ども」について知らなければならないということです。
さらに、眼病が癒え視力が改善すれば、そうなった時に何をしたいのかということも考えなければなりません。視力についてはその答えは自明でしょうが、知識については必ずしもそうではありません。どんな知識もそれを習得することが自己目的化するのはおかしいでしょう。しかし、何のために勉強するのかと問われ、それに即答できる人は多くないのではないかと思います。その力を何のために身につけるかを考えなければなりません。
教師への信頼
アドラーは次のようにいっています。
「教師は子どもたちの心を形作り、人類の未来は教師の手に握られている」(『子どもの教育』)
この引用からも、子どもの「心」を形作ることが教師の仕事だと考えていることがわかるのですが、人類の未来は教師の手に握られているとまでいうほどアドラーが教師に大きな信頼を寄せていることに驚きます。
他方、アドラーが親に向ける目は厳しいです。教師は、家庭における親の誤った教育の結果である子どもを学校で引き受ける。家庭での教育での誤りを教師が補うのであり、親には「再教育」が必要であると考えています。
アドラーがここでいう誤りとは、多くの親が子どもを甘やかし、子どもの方も親に依存し、自己中心的に育つことを指しています。
今日、アドラーがいうような再教育を親にできるのだろうかと私は思ってしまいますが、アドラーが教育をただ知識を教えることであると考えていないのはわかります。
勇気をくじかれた子ども
さらに、アドラーは次のようにいっています。
「ほとんど聖なる義務といってもよい教師のもっとも神聖な仕事は、どの子どもも学校で勇気をくじかれることがないように、そして、既に勇気をくじかれて学校に入る子どもが、学校と教師を通じて、再び自信を取り戻すよう配慮することである」(『子どもの教育』)
学校に入る前に家庭で勇気をくじかれている子どもがいるのです。私は長年カウンセリングをする中で、勇気をくじかれ自信を失った子どもたちと話をしてきました。アドラーはカウンセリングも「再教育」であるといっていますが、アドラーは教師にカウンセリングの理論と技法を教えました。
今日、親だけでなく学校でも教師から勇気をくじかれる子どもたちはどうしたらいいのかと暗澹たる気持ちになりますが、教育者はこのような子どもたちこそ助けなければなりません。
教師は家庭での教育での誤りを「補う」といっていることからわかるように、教育は教師だけではできません。教育は何を目指すのかを、教師と親が協力して考えていく必要があります。