共同体の中心にいるのではない
アドラーが「教科を教えるのではなく教科で教える」という時、何を教えるのか。まず、自立であり、次に自分に価値があることを教えなければならないということを前回までに見ました。
さらに、子どもたちに教えなければならないことは、自己中心的な考え方から脱却するということです。
人は誰も一人では生きることはできません。人は他者との繋がりの中で生きているのです。人との繋がりのことをアドラーは「共同体」と呼ぶのですが、共同体の中に自分の居場所があると感じられることは、人間の基本的な欲求といっていいのです。
しかし、人との繋がりにあり、共同体の一員であると感じられるということと、その中心にいるということは別のことです。ところが、自分は絶えず共同体の中心にいて注目されなければならないと考える人があまりに多いのです。
なぜ自分が共同体の中心にいると思ってしまうかといえば、子どもは生まれてからかなり長い間、親の不断の援助がなければ生きていくことはできなかったからです。
それでも、子どもは成長していき、やがて親の手を借りなくても大抵のことは自力でできるようになります。それなのに、自力ででき、しなければならないことを親に肩代わりしてもらおうとする子どもがいます。親の方も思っているよりも早く子どもが自分のことをできるようになっているのに、いつまでも小さい時と同じように扱います。
そうすると、子どもは他者が自分に何かをしてくれることを当然と思うようになってしまいます。
子どもが受験生なので、どのような配慮をすればいいかという相談を親から受けることがよくあります。家族がテレビを見る時に音量を落とすとか、大きな声を出さないようにしないといけないのかというようなことです。当然、必要以上の音量でテレビを見なくていいでしょうが、受験生だからといって特別扱いすることはない、普通にしていればいいと私はいいます。
子どもが自分が受験生であることを、いわば特権であるかのように思い、例えば家事をすべて免除されるというようなことはおかしいのです。
家事をしなくても、勉強することに専念することを許されるような子どもは、一体、自分が何のために勉強するのかをまったく考えないか、もしくは、一生懸命勉強をして受験に成功し、安定した仕事に就き、高収入を得るというような成功をするためだと、思い違いをする人がいます。
自分のことしか考えないエリートは有害以外の何ものでもありません。
他者に関心を持ち他者に貢献する
たしかに、誰もが子どもの時だけでなく大人になってからも、他者から助けられて生きています。しかし同時に、自分も他者に何ができるかを考えなければならないのです。
アドラーは次のようにいっています。
「人生は全体へと貢献することを意味する。人生の意味は貢献、他者への関心、協力である」(『人生の意味の心理学』)
勉強についていえば、勉強することで成功することしか考えていないような人は、自分にしか関心がないのです。他者が何に関心を持ち、他者が何を必要としているかを見極めることができる人だけが他者に貢献することができます。才能のある人は、その才能を活かし貢献しなければならないのです。
貢献という言葉には抵抗感がある人がいるかもしれません。他者のことを考えることは少しも自分の得にならないのではないか。他者貢献は自己犠牲ではないか、と。
アドラーは次のようにいっています。
「人が本当に他者に関心を持ちたいと思い、公共の目的のために働きたいと思うのであれば、まず自分自身の世話ができなければならない。与えるということが何か意味を持っているのであれば、自分自身が何か与えるものを持っていなければならないのである」(前掲書)
与えるためには、まず自分が与えるものを持っていなければなりません。そのためには一生懸命勉強しなければなりません。
問題は、そうやって身につけた知識を何のために使うのかということです。幼い頃から自分のことだけを考えて生きることを許されると、勉強をすることが他者に貢献するためだとは思いもよらないでしょう。
他者に自分の能力を使うことで貢献できると思えればこそ、時に勉強が苦しくてつらくなっても耐えることができるのです。
自分に価値があると思えるために
アドラーは、前回引用した
「自分に価値があると思える時にだけ勇気を持てる」(Adler Speaks)
という言葉に続けて、次のようにいっています。
「私に価値があると思えるのは、私の行動が共同体にとって有益である時だけである」(ibid.)
学校で勉強をしている生徒たちの場合は、ここでいわれる行動は勉強のことです。勉強が共同体に貢献できればその勉強は有益なものになります。
この意味で貢献感を持てれば、自分に価値があると思えます。そうであれば、自分の価値はもはや誰かに認めてもらう必要はなくなります。