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ミライノマナビコラム  ― 大局観で教育を考える

2022.3.11

第16回 大学入学共通テストに残る課題

後藤 健夫

後藤 健夫

教育ジャーナリスト。
大学コンサルタントとして、有名大学などのAO入試の開発、 入試分析・設計、情報センター設立等に関与。早稲田大学法科大学院設立に参画。元・東京工科大学広報課長・入試課長。『セオリー・オブ・ナレッジ―世界が認めた「知の理論」』(ピアソンジャパン)を企画・構成・編集。

 

対策とテクノロジーのイタチごっこ

 今年も大学入学共通テストが終わった。問題ネット投稿事件という残念なことが起きた。

 こうした事件は今後も起こり得るし、対策を講じても、情報端末機器はウェアラブルになり、それを嘲笑うかのように不正は起きるだろう。イタチごっこを繰り返すだけだ。受験生には「公正」に受験するよう努めてもらいたい。カンニングをして大学に合格してもその負い目を一生背負って生きることになる。このしんどさは想像してほしい。

 こうしたことが起きると、マスコミには識者や芸人が登場して、したり顔で「論述式で自分の意見を書くような出題にすべきだ」「他人に聞いてもかまわない試験にすればいい」などと言うが、いまの大学入学試験のシステムでそれらが本当に可能だろうか。実現可能な方策を提言しなければなにも良くならない。

 

不正防止のコストを誰に負わせるのか

 考慮すべきこととして、例えば、答案を短時間でいかにより公平に評価するかがある。共通テストであれば、50万人の受験生の答案を半月程度で評価がぶれることなく採点することを求められる。競争試験だから有意差が生まれなくてはならない。平均点が6割程度になる正規分布を描くように得点されなければならない。試験時間にも限度がありそんなに多くの出題ができない。「〇〇について述べよ」といった、いわゆる「1行問題」のような出題にすれば良いかもしれないが、それで高校で履修した幅広い範囲の中から網羅的に基礎基本を問うような出題ができるだろうか。共通テストのような標準的な共通試験の出題はそんなに簡単なものではない。

 そうであれば、そんな共通テストはやめて、個別試験だけで合否を決めればいいのではないか。現に総合型選抜や学校推薦型では共通テストを必要としないケースが多い。また、試験なんてやめて志願者をくじ引きで選抜すればいいという意見もあるだろう。しかしながら、これらにおいても相当な負担や軋轢、混乱、そして新たな矛盾を生むことになる。高齢化への対応で教育に十分な予算配分しない社会は耐えられるだろうか。個別試験だけで合否を判定してもいいが、いずれ網羅的な基礎学力を問う必要性が出てきてそのために大学が個別に試験を用意することが果たして合理的だろうか。そのコストは受験料や学費に反映されるのだそもそも大学で学ぶための基礎学力を担保しないで入学させて高度な学問を伝授できるものだろうか。卒業や単位認定を厳格にすればいいかもしれないが、基礎学力がないまま入学した学生の負担は如何程か。キックアウトされた学生のその後を今の日本の社会が受け入れるだろうか。

 

大切なのは完全な「公平」ではなく受験生のメリット

 どんな試験でも能力を正確に評価するには未だ限界がある。そもそも評価すべき能力とは何かといった課題もある。

 全方位隈なく評価されることが果たして良いことだろうか。多少評価しきれないことがあるからこそ救われることもある。「公平」を追い求めても、運や偶然はそれを超えて訪れる。

 現在の大学入試制度は、共通一次試験以来、試行錯誤を繰り返しながらもさまざまな制約の中で進化してきたものだ。ある意味で一つの完成形だと言える。

 しかし、受験生のメリットという点で考えると、共通テストには決定的に足りないところがある。それは、同じ高校卒業~大学入学時点で受験する国際バカロレア(IB)の最終試験と比べるとはっきりする。

 IBの最終試験は世界標準であり、この試験のスコアを持って世界の大学の入学審査を受けられる。つまり、国際通用性を担保している。共通テストは、50万人規模の受験生が同時に受験できる実施運営システム、幅広い範囲の基礎学力を問う出題能力において世界に誇れるものだろうが、残念なことに国際通用性がない。

 カンニング問題に議論を引きずられがちだが、共通テストの課題は「不正をなくすこと」ではない。高校生が3年間をかけて学び、受験した試験の結果が、同年度のみで国内の大学にしか通用しないなど、受験生のメリットが少ないところだ。もしも共通テストを変えるのであれば、受験するメリットを増やす方向でなければならない。

 

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