世界平和の構築を掲げる国際バカロレアの理念では「他者との違いを違いとして認める」ための対話が重要とされている。しかし、世界に存在する課題の中には、他者理解だけでは解決できないものがあるのも現実だ。今回は、そのような課題に対してIBの学習者はどのように考えるのか、その一例を紹介する。
正解のない問いの解法
社会は社会課題という「正解のない問い」を次から次へと投げかけてくる。
一つの社会課題を解決できたのであればその解法を同じような他の事象に当てはめることもできるだろう。思考の転移である。一方で、世間には、少子高齢化のような大きな社会課題に限らず、日常の暮らしの中にも小さな小さな社会課題がたくさん転がっている。
残念なことに、日本は「課題解決先進国」ではない。政府は、少子高齢化という課題に対してこども家庭庁を創設するなど対策を講じるものの、未だ解決の緒が見えているわけではない。
身近な小さな課題を解決した解法を大きな事象に転用してみることや課題を構造化してとらえて小さな課題解決を積み重ねるスモールステップを踏んでいき小さなものから大きな解決へと向かうなど、課題の解決にはさまざまな方法がある。とはいえ、課題が複雑になれば、それらの方法も簡単に適用できるわけではない。
国際社会における社会課題は、宗教観、歴史観などの違いから多くの課題を含み、どんどん重く複雑になっている。
いかに複雑な課題を解決するか。それを問われているがなかなか解が見えてこない。利害が異なる多くの人たちにはそれぞれの真実がありそれぞれの解がある。それゆえ意見調整が必要である。価値観が異なる中での合意形成は難儀だ。
ロシアにはロシアの真実があり、ウクライナにはウクライナの真実がある。事実としては人が殺されているのだ。そうした状況からいかに解を見いだしていくか。重い課題である。
他者理解が通用しない課題
先日、APU(立命館アジア太平洋大学)の東京事務所で、「世界を知るための対話」というイベントが行われた。APUの国際学生(海外からの留学生)の卒業生2名(モンゴル出身者、ウズベキスタン出身者)と『世界史とは何か』(岩波新書)の著者である小川幸司さん(長野県伊那弥生ヶ丘高校・教諭)とが、それぞれの国での教育を歴史科目(世界史)を軸に対話しながら考えるものだった。モンゴルもウズベキスタンも隣国の大国に支配された歴史を持ち、彼らもそれぞれ大国に支配された中で学んだ経験を持つ。二人とも大国の支配が解かれて、海外との交流ができるようになったからこそ日本の大学に留学できたことを喜んでいる。
このイベントには企画段階から関わっていたので、事前打ち合わせから参加した。
その事前打ち合わせで、小川さんとウズベキスタン出身者との対話の中で驚いたことがあった。隣国間対立の解決に話題が移った時である。世界平和の構築を掲げる国際バカロレアの理念では「他者との違いを違いとして認める」ための対話が重要とされている。対話の焦点もそこに定まるのではないかと予想しながら聞いていると、彼の主張は「豊かな地球を守ることが第一だ。その上で解決を考えるべきだ」というものであった。大国の支配を受けた経験があるがゆえに「他者を理解する」などといった解決策では収まらないのだろう。支配される側にとって、支配をする相手を理解することなどでは支配を覆すことができないことを肌身で知っているからだ。
支配関係のない、平和な日常のコミュニティにおいては「他者を理解する」ことは重要であり、その違いを認めることはコミュニティ形成では有効だが、支配関係がある中ではそれは通用しない。支配関係の中には信頼関係はない。そして、信頼関係がなければ合意形成は難しい。これは国家間といった大きな課題にまつわるものだけだろうか。
日常において、知らず知らずのうちに、支配構造があることはないだろうか。支配関係、特に支配される側のことをどのくらい意識して日常を過ごしているだろうか。
大きな社会課題とともに、日常における小さな課題の中にも潜むことではないか。
そんなことを考えさせられる場面だった。