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ミライノマナビコラム  ― 大局観で教育を考える

2018.9.7

国際バカロレア教育とこれからの教育 第2回

後藤 健夫

後藤 健夫

教育ジャーナリスト。
大学コンサルタントとして、有名大学などのAO入試の開発、 入試分析・設計、情報センター設立等に関与。早稲田大学法科大学院設立に参画。元・東京工科大学広報課長・入試課長。『セオリー・オブ・ナレッジ―世界が認めた「知の理論」』(ピアソンジャパン)を企画・構成・編集。

「国際バカロレア教育」は英語教育でも国際理解教育でもありません。それではいったいどのような教育プログラムなのでしょうか。教育ジャーナリストの後藤健夫氏に国際バカロレア教育を通して日本のこれからの教育を考えてもらうこの連載、今回はなぜ国際バカロレアが注目されているのかを、日本の教育事情や社会状況と絡めてお伝えします。

 

「問題発見・解決能力」。

 

この言葉が頻繁に使われるようになったのは、慶應義塾大学がSFC(湘南藤沢キャンパス)を開設して以来のことだ。総合政策学部と環境情報学部の2学部が設置され、自然言語としての英語、人工言語としてのプログラミングの修得が求められて、プロジェクトベースの学習が展開された。それらの学習において重視されたものが問題発見・解決能力である。

SFCが使い始めて以来、他の大学も積極的に使うようになった。それでも、当時の問題発見・解決はプログラミングのバグ取りのようなものだった。問題を切り分けたり仮説を立てたりしてどこに課題があるのかを見つけて解決することを重視した。しかし、いま言われている問題発見・解決は、意見や立場が異なる人たちの、未知の課題に最善解や納得解を見出していくことを問われている。宗教対立にまつわる課題、民族紛争にまつわる課題など、いずれも複雑でこれが唯一の正解だというものをなかなか見出せない。

急速に変化する今日の世界では、解決すべき課題が日々登場する。しかも、その課題は「正解がない問い」(正解が必ずしも一つに定まらないような問い)であり、未知の問いである。

例えば国内では少子化の問題がある。団塊世代は団塊ジュニア世代を生んだが、団塊ジュニア世代は長期不況や就職氷河期のあおりを受け、そのジュニア世代を生むことができずに少子化が加速した。少子化は先進国共通の社会課題だが、フランスのように出生率を上げた国もある。日本ではいまだに得策がなく、なかなか出生率が向上せず、少子化はどんどん進行しており、課題解決に向かわない。高齢化も進んでいる。予防医療や医療技術が発達しているからだ。しかも団塊世代に続き、やがて団塊ジュニアも高齢者となる。高齢者人口そのものが多い。このままだと、少ない若者が多くの高齢者を支えなければならなくなる。

さらに人工知能の進化により、職業の寿命が短くなるだろうと言われている。なくなる仕事もあれば新しく生まれる仕事もあるだろう。未来の若者は少子化・高齢化に加えて、産業構造の変化にも対応しなくてはならない。そうした変化に対応するには、正解ではなく、学び方を学ぶ必要がある。技術は日進月歩だが、その技術の学び方を知っていれば対応できる。

旧来の教育を受けて育った人の多くは、唯一の正解を求めて行動したり発言したりする「正解主義」に陥りやすい。そうした人たちのグループワークではファシリテーターが求める「正解」を当てに行こうとする光景がよく見られる。彼らは、正解がわからないと態度を表明しない傾向があるため、「〇〇だと思う人、手をあげてください」と言われてもなかなか手をあげない人たちでもある。

かつて、工場を運営するにはそういう人たちが重宝された。その方が生産性も上がったからかもしれない。しかし、その工場にはいまや人がいなくなりロボットが生産性を上げている。

言われたことを間違いなく実行に移す能力では、人間はコンピュータには勝てない。知識爆発の時代に知識だけを詰め込んでもコンピュータには太刀打ちできないのだ。こうした受動的な学習はコンピュータが最も得意とするところである。だからこそ、これからは能動的に、主体的に学ぶことが求められる。

日本は「社会課題先進国」と言われている。しかし「社会課題“解決”先進国」とは必ずしも言えない。「まったく新しい状況」が日々現れてきている。「試験で何点取れるか」を競う教育をこのまま続けても、未知の問いに対して手をあげない「正解主義」者を増やすだけで、課題は先送りされるばかりだ。

いま、まさに未知の問いに立ち向かえる教育が求められている。国際バカロレア教育が目指すのはこうした教育なのだ。

 

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